(1867〜1941) |
『紀州が生んだ巨人』
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南方熊楠は南方弥兵衛の次男として和歌山城下に生まれる。
近所の家で書物を借覧し、漢文で綴られた当時の百科事典105巻の写本を作り上げる程、少年時代から神童ぶりを発揮していた。
和歌山中学校を卒業後、東京大学予備門に入学したが、当時の日本の教育に飽き足らず、渡米して各地を巡り研究に没頭する。その後ロンドンに渡り、科学雑誌「ネイチャー」に「東洋の星座」という論文が掲載されたことにより、その名が知られ大英博物館の嘱託職員に迎えられる。
帰国後は、田辺に定住し熊野地方の植物研究に没頭。あらゆる分野にわたる研究生活を送り、ミナカテルラ・ロンギフィラという新種の粘菌を発見するなど世界的業績をあげた。
奇人学者としてとりあげられることの多かった南方熊楠ではあるが著作も多く、その分野は植物学のみならず、森羅万象に及び「日本人の可能性の極限」とまで表される博学であった。
田辺市では、南方熊楠の没後五十周年にあたる1990年南方熊楠賞を制定している。 |
写真提供:南方熊楠邸保存顕彰会 |
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南方熊楠
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南方熊楠墓所
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高山寺本堂
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