松尾塊亭、名を隆弘といい、幼名は熊之助、後に三七と改めた紀州藩士で、
八代藩主・重倫公、九代・治貞公、十代・治宝公と、三代にわたり仕えた。
はじめは「槐亭」と号していたが、後に「塊亭」と改める。他にも「風悟」「木鶏子」「欠伸子」「松塊翁」などの号も使っていた。諸芸にわたり優れた人物であったが、特に俳諧の道においては高名で、紀州俳諧の中興の祖と言われている。
文化12年(1815)享年84歳で亡くなる。鷹匠町の延命院に塊亭の墓が残っている。塊亭は当時、堀詰の東南側に住んでおり、その頃の延命院第二十世住職の村上環も俳句を好んだので、二人は日頃からよく交流し親睦を深めていた。
また、粉河寺には塊亭の句碑が残っている。
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