江戸時代後期の本草学者。延享3年和歌山市湊で生まれる。紀藩士。姓は源、名は良貴、通称源三郎、桃洞はその号である。青年の頃から本草学に志し、京都に赴いて内科の泰斗吉益東洞に学び、本草学の大家小野蘭山の門に入って修業、師に従い全国の山野を廻って精密に動植物の実態を観察し、和漢の書に照合して研究を進めた。紀州藩主10代治宝が彼の学殖を愛し、藩内に本草局を設けて桃洞を主任に任命してその経営に当たらせると共に小普請医師に列した。桃洞は、ますます研鑚を積み、『紀州物産誌』『熊野中辺路採薬巡覧記』『本草余纂』『南紀土産考』など多くの著書を世に出した。
桃洞の研究によって本草学は大いに振起され、彼の門人となる人が多かった。門下からは、当時の名医といわれた畔田翠山をはじめ、山中信古、上辻木海らを輩出した。天保10年(1839)紀州藩が刊行した『紀伊続風土記』の物産篇を担当したのが桃洞である。
文政8年7月没。80歳。和歌山市吹上の大恩寺に墓がある。
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