江戸末期の外科医。近代世界外科医学の始祖といわれる。宝暦10年10月、紀伊国那賀郡西ノ山村(現、那賀郡那賀町)華岡直道の長男として生まれた。青洲4代の祖尚親が、付近を拓いて平山と名付け、農業に従事するかたわら医を業とした。医業専業となったのは祖父尚政の時からである。父の直道は、大阪に出て南蛮流外科医として盛名のあった岩永藩玄に師事して外科を学び、郷里に帰って家業を継ぎ2代随賢と称した。青洲はこの直道の長男である。
青洲は名は震、通称雲平、字は伯行、3代随賢青洲は号である。天明2年(1782)京に上り、古医方の権威吉益南涯につき、カスパル流外科医の泰斗大和見立(について学ぶこと3年、大いに技を磨いて帰郷し、春林軒塾を開いて多くの門人を教えた。享和2年(1802)9月、紀藩主治宝(侯に召されて士分に列し、累進して天保4年(1833)奥医師を仰せつけられ、15人扶持を賜わることになった。しかも、青洲の希望により勤務は城下に引っ越すことなく、西ノ山に居住を許された。
青洲が外科医として最も望んだことは無痛の手術である。長い間の研究の結果、マンダラゲを原料とした全身麻酔剤「通仙散」を開発し文化元年(1804)初めて「通仙散」を用いて乳ガンの摘出に成功した。その間、麻酔薬の実験には妻加恵(を試験台に使うなど、尊敬と感激の念を禁じ得ない。
天保6年没。76歳。西ノ山に葬られる。大正8年(1919)生前の功により正五位を追贈された。青洲の全身麻酔による手術は世界に先駆けること40年、近代世界外科医学の始祖といわれ所以である。現在残っている門人録には約2000人の名が連ねられ、その範囲は全国67ヵ国に及んでいる。
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