有名人のお墓

No.02

  (1756〜1833)
『紀州の博物学者』
場所 和歌山市吹上5-4-31
曹洞宗 大泉寺内
 

 江戸後期紀州藩の本草学者。姓は源、名は伴存、通称十兵衛、翠山と号した。別に翠嶽は、紫籐園などの号がある。家は代々医を以って紀州藩に仕えた。寛政4年、和歌山に生まれて、医を業としたが薬草の研究に没頭し、その研究家として特に有名だったので、紀州藩主10代治宝が藩経営の薬草園の管理を命じた。
 青年の頃から、紀藩の博物学者として名高い小原桃洞について本草学を学んだ。紀州の山野はもちろん、北は北陸の越後、越中、東は甲斐、信濃、西は長門、周防に至るまで広い範囲にわたって、深山幽谷の間を歩き、薬草の採集に努めた。そのほか動物についても精査し、標本は巧みな筆法で写生し、著書も多く、五十余著に及び、本邦博物学界の第一流学者の中に数えられた。
 翠山の研究は実証的で、地方の動物誌・植物誌を学術的にまとめたことで評価が高い。しかも従来の本草学者は植物だけを対象にしがちだったが、海に囲まれた紀州に生まれた翠山は水産動物に注目し、魚類の研究にもつとめている。それゆえ翠山の研究は「本草学」というより、むしろ「博物学」の領域に達したものと評されている。
 安政6年6月に熊野山中で薬草採集の途中、本宮で客死した。68歳であった。昭和3年(1928)11月、昭和大礼の日、生前の功績を賞されて従五位を追贈された。墓は和歌山市吹上の大泉寺にあり、また同寺の境内に昭和4年4月に顕彰のために建立された「畔田先生碑」がある。著書には『古名録』『水族志』『熊野物産初志』等がある。

*****本草学とは*****
草木や動物など、今でいえば「医学」や「動物学」が扱うすべての分野を含めた学問。もともと中国から伝来した学問だが、日本では江戸時代に最も盛んになった。和歌山では、後に八代将軍になる徳川吉宗が殖産興業政策に取り入れ、海や山から「採薬」を積極的に行わせたり、薬園を設けて薬用人参や薬草の増産を図ったりしたことで大いに隆盛した。



畔田翠山の墓

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