■大観寺の由来・観光
当山は、高野山系に文脈する、長峰山脈の一部である、県立生石高原の山腹に位置し、高野山の開基以降、高野山の末寺にして、寳琳山観蔵寺と名付けられ開山された。併し、万寿年間(1024〜28)、野上八幡宮の造営にあたり神領になり、次いで神野荘に属し、鳥羽院領【康治二年(1143)〜正治元年(1199)】になった。約五十六年程を経て、神野荘が高野山の寺領に復している。室町時代、文明十八年(1486)、蓮如上人が冷水浦(海南市)へきて浄土真宗を広めるにつれ、当地からも住民が帰依していった。
当山の北東の下手に、当時、讃公上人開山による無量山西方寺が(現野上町柴目の浄土真宗西方寺の先祖寺)がある。従って、当山は荒廃し、無住と化し、狐狸の住み家となる。天正十八年(1590)、豊臣秀吉が天下を統一し、高野山が寺領政策を強化しはじめた当時、住民は、真言密教に改宗させられ、それに反発した住民が、現在の海南市の東上谷、赤沼、海老谷方面へ逃散した。
この頃、御本尊十一面観音像【吉野朝(十四世紀)時代の作】が修理され、住民の有志から田地が当山に寄進されている。江戸時代は、歴代にわたり住僧が数十人をかぞえたが、明治十二年堂宇倒壊し無住と化し、明治三十九年十二月五日、隣地で同宗派の光明山大師寺と合併し、今日の寶琳山大観寺と名付けられた。
本堂は、昭和五十五年に再建(観蔵寺時代を経て)された。御本尊十一面観音は、昔から霊験ありて諸願を成就させている。なお、境内にある鐘楼と梵鐘は、享保十三年(1728)三月三日に、名草郡(海南市)黒江の住人、川久保道意と、その庶子たる新九郎が発願し、郷土の菩提寺のために寄進された。更に、当山には奥の院として、立石不動がある。紀伊続風土記には、「石立不動」とある。例年二月二十八日、諸願の祈祷護摩が焚かれ、大餅投げが修されている。要するに、当山の境内へ立てば、山里が一望出来て、ふる里の郷愁にひたれ、心の安らぎを覚ゆ。春には、うぐいす、夏には、蝉の合唱、空気は最高である。また、県立生石高原(870m)への登山道でもあり、頂上へ登れば、四国淡路島・神戸を眺望できて、ハイキングやキャンプできた人々の休憩の場である。
■年中行事