■真田庵(善名称院)の由来
開基大安上人が日頃帰依なさっている御本尊地蔵菩薩がお姿を現されて「この地は清浄無碍の地であって地蔵の浄地である。あなたが善名称院を建立するがよい。」との霊告を受けた。上人が不思議な教示を受けた翌日その地へ行くと草木の生い繁る中に一基の宝筐印があった。上人は感喜して塔と松一本を残し伐採し南面に一宇の伽藍を創建し、桜町天皇寛保元年(1741)8月本尊地蔵菩薩をこの寺に安置なさって本尊の教勅により善名称院と号して西に一門を構えその両楹に「無仏導師愿現住処、一切衆生入解脱門」と二句の頌文を掲げ心の迷いの為に悟りを開く事ができないでいる衆生に教えを悟し、毎日の勤行に益々勉めて衆生済度に励まれた。この地は慶長5年から19年迄真田昌幸・幸村公が蟄居された屋敷跡で、宝筐印塔は雄図も空しく島流しになった地で病死した父安房守の追福の為に幸村公が建立したもので、幸村公が大阪夏の陣の戦いで武士道に従って戦死されて百二十有余年がたち、松や雑木に覆われ、邑人は真田屋敷跡として境界に入り樹木を伐れば祟りがあると言い伝えられ誰も境界に入らない神聖な所として看做されて来た。
「真田地主大権現」或る夜安房守の神霊が現われて忿怒の相を表されたので上人は神霊を地主大権現として崇め、阿弥陀如来を菩薩の本体として神霊と比沙門天を地内に迎えて祭った。その夜又安房守が来臨されて「経を読み、法文を唱えることにより衣食が充満し、この地の主として永くこの浄土を守るつもりだ」と固く誓われた。上人は益々崇敬して供養を怠らなかった。上人は又霊告を受けて、稲荷大明神、金毘羅大権現、天満宮を迎えて祭った。
住吉大神宮は上人が一寺を建立すれば御社を造ろうと言った誓約を忘れたので大変怒り、白鷺が空を往来してので上人は恐れ入り、住吉大神が神霊がある場所にとどまるようにお願い申し上げ、寛永元年(1748)11月境内に神社を建立申し上げた。
「土砂堂」上人は衆生済度の為本尊へ加持土砂をお願い申し上げた。本尊はあわれみを受けられ自ら清浄な砂を何回も加持なされた。上人が諸人に分け与えると利益を受けることが多いので、病人は父母のように慕って来た。その後数回の加持にいたっては本尊が自らあちらこちらの河原で二、三回割りあての土砂を加持なされ、上人にお告げになられたので上人は弟子の仲間や信者の人々に命じて本尊が名指しした所にある石数の土砂を運んで箱に納めた。宝暦の末になると本尊が加持なさった土砂がすでに五十三石になったので上人は如意宝蔵を造立し土砂を安置申し上げようと思い、勧進の文章を作り広く有縁の仲間に求めて、遠近からの浄財や仏の力をかりて宝蔵を完成させて、その宝形に青と白2個の仏舎利を納置して、安永2年(1773)3月、宝蔵供養の儀式を執行された。
此土砂衆生幸福に分ち終る頃は、更に上人此寺に再来せらるると誓言せられ、安永2年5月20日御入定せられたのであります。
■観光
「慈尊院」当地から西へ約一、五粁、弘法大師が高野山開創の折、政所を置いて母公の為伽藍を建立し弥勒菩薩を安置なさり地主神として丹生都比売・高野御子の両神を祭った。こ
の時みろくの段を慈尊院と呼び、高野山の女人禁制が解かれるまで結縁寺とも女人高野山と も呼ばれた。
「高野山町石」町石道は慈尊院から高野奥之院に至る二十四粁の間にあり高野山大塔を起 点として奥之院三十六町慈尊院まで十八十町として一町毎に建立されてある。
弘法大師開山の頃は木製の卒塔婆だったが、文永2年(1265)覚教上人が願をたて、京都 鎌倉から寄附を集め十三年の歳月を要し完成、石造で高さ3.33メートル、上部に五輪塔があ
り、下部に梵字と町数と施主名が刻まれており、最高の表参道である。
■ 交通
九度山駅より徒歩10分
*駐車場はございません。お参りの際は公共の交通手段をご利用下さい。
■年中行事
毎月二十四日 |
地蔵講 |
節分 |
開運除厄星祭り |
五月 五日 |
真田祭 |
八月 十日 |
施餓鬼会 |
八月二十四日 |
地蔵盆 |