■印定寺の由来
当山は住古真言宗にして、弘誓寺と称す。開基、世代等不詳。慶長年中(1596〜1614)浄土宗総本山知恩院第二十九世満誉普照上人が、熊野三社権現に御参詣の途次、当山の前身地に御一泊、説法勧化せられ、その結果上人に帰依する者多く、直ちに浄土宗に改宗を請願するに至る。上人御帰京の後、芝の増上寺、観智国師の尊弟、信誉恵伝上人を当山に遣わされ南龍山、弘誓院印定寺の山、院、寺号を賜う。尚旧記によれば、南龍山の山号は、紀伊南龍公(紀州徳川藩主頼宣公)より拝領せりと伝う。信誉上人退院後、弟子の行誉上人が当山に入り慶安元年に現位置に移転再建、その後、寛政年中(1789〜1800)に本堂及び山門等を再建今日に至る。
■カツオと印南
慶長の頃遠く九州、四国に出漁した印南漁民は、土佐清水市の沖にカツオの魚場を発見し、以来毎年十ヶ月間足摺岬の各地に留ってカツオ節を製造した。
又、当山には、カツオ節を考案した角屋甚太郎の位牌が詣られている。又当山の観音堂は、豊漁と旅漁の安全を願った当時の船主の建立になる。
■角屋の施餓鬼
明和8年(1771)印南の里に、代々庄屋をつとめ印南浦地区きっての財産家、角屋の一人息子与一と角屋に女中として働くヲサナという美しい娘、二人は何時しか人目を忍ぶ仲となったが、当時の封建制度のもと、相いれられぬ恋を悲しみ二人は、遂に旧10月12日夜(当山十夜法要)印南浜の高岩から「やまぜ」(南風)の吹く中、心中したのである。角屋夫婦は嘆き悲しみ財産を処分し土佐に移住、その一部を二人の供養にと当山に寄進し、旧10月12日の夜角屋の施餓鬼として、村人達が御参りして二人の冥福を祈る。又、この日には必ず印南の里に「やまぜ」の風が吹き、漁師達は休漁するという。「やまぜ」の風は、悲恋に果てた二人の霊が今も里人たちに、明和の昔をしのべと訴えているのであろう。
■年中行事
一月 |
御忌会 |
二月 |
涅槃会 |
三月 |
彼岸会 旧初午 |
四月 |
灌仏会 地蔵会 |
八月 |
盆施餓鬼会 地蔵盆 |
九月 |
彼岸会 |
十一月 |
十夜法会 (旧十月十二日角屋施餓鬼会) |
■交通
紀勢線「印南駅」下車、徒歩3〜4分
普通車は国道42号線(日石GS)より0.3km
バス・マイクロは農免道路入口より1.8km