■普門院の由来
聖徳太子斑鳩宮の奥深くお休みの処、ある夜この地に紫雲棚曳き観世音の霊光眩く村人が跪づいて礼拝している様を夢見られ推古天皇の勅命を拝して太子自ら延駕せられた。その時、かの瑞夢の様に十一面観音、森の中の白石上に顕れ給う。勅使供人驚き競いて叢原に跪づき伏し拝む。これより不死原を伏原と称し、この石を影向石と云う。
太子は堂宇を草創なし給い檀金一寸八分の聖尊を安置し、金字の法華経一部を書写し給い埋めて国家鎮護の霊域とされ法華山普門院観音寺と宣べ給い永世に境内一町歩を賜り暫く屋根替等は宮中より行われたと云われる。
星移り聖武天の天平年間、行基菩薩、この霊域を遊歴され影向石の元に屏風に草枕、その夜十一面尊夢に顕われ、縁起を物語られしにより菩薩は十一面観音を勧請せられ一尺二寸の霊像を彫刻、古霊を秘蔵され八間の本堂を宏構中興せられる。
足利尊氏、豊臣秀吉の兵火により消失、然れどもご本尊は難を逃れ安泰なりと云う。その後、西五十米の現在地に移し再建。
昭和9年、本堂の屋根替と大修理を行う。
開運厄除、病気平癒、学問上達の祈願所として厄除伏原観音の霊験殊に新たなり。
会式は3月18日で昔より「伏原の千部講」として有名なり。
行基菩薩御作
「めぐり来てこよひはここにふしはらの
草の枕に夢やさむらむ」
■大師堂
約二百五十年前の建立にして、殊に弘法大師像は宝暦10年3月、高野山大仏師長谷川康安、一刀三拝の作なり、明治4年勝縁ありて当堂に遷座昭和47年3月21日、弘法大師ご誕生千二百年を記念して老朽の大師堂を再建、四十二才の坐像は日本一で開運大師として十方の祖信徒の帰依を集めている。
「松ヶ枝をわたるみおやの声さえて
日々におろがむ 伏原の里」
■影向石
伏原観音が応現された霊石
仏座石、仏足石とも言われ又韻石なり伝えられる。
伏原観音及び地名の発祥
昭和50年(1975)境外の南約五米より移す。
■開運修行大師像と四国八十八ヶ所お砂踏霊場
弘法大師ご入定千百五十年御遠忌を記念して昭和56年5月建立、ミニ四国霊場として香煙の絶ゆることはなし。
果てしなき苦海を渡す慈悲の杖
あなありがたや 南無遍照尊
■ぼけよけ地蔵尊
ボケを始め心の不安や病苦の悩みから救われ、無量の功徳あり
日本で始めての二十四地蔵霊場第八番札所として昭和60年(1985)4月開創、日々に安らぎと幸せを与う、他に子安地蔵尊、大威徳明王(牛滝さん)、などを祀る。
■地獄谷
聖徳太子が拝跪せられた十一面観音の影向石を欠きてたばこの付け火とし、或は砕いてのむ者数知れず、その仏罰か、天俄かにかきくもり雷鳴轟き土地震い人々驚きて坤の谷に逃れしが、この時、地面陥没奈落の底に入るなり。以後、寺獄谷又は西谷と言う。当寺より西二百米。
■放生会
紀北唯一の行事で毎年5月3日、健康長寿、減罪生善を大祈願し、紀の川へ鯉子多量放流、参拝会員、境内に溢れ賑う。
■年中行事
正月
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元日〜三日 |
初詣 |
二月
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節分星供会 |
三月
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十八日 |
本尊会式千部講 |
三月
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二十日 |
彼岸会 |
五月
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三日 |
放生会、旧花まつり |
八月
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十日 |
大施餓鬼会 |
九月
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二十日 |
彼岸会 |
十二月
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一日 |
十夜会 |
毎月
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十七日 |
観音講 |
毎月
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二十一日 |
大師講 |
毎月
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第一日曜日 |
観音講研修会 |
毎月
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三回 |
金剛流詠歌指導会 |