■おたき萬徳山瀧法寺の由来
紀伊之国十三佛霊場第十三番御札所、天智天皇勅願宝参り霊場、十三佛虚空蔵尊宝大師霊場、伊奈瀧大宝院萬徳山瀧法寺は霊験あらたかなる宝の玉の輝く日本唯一の宝参り霊場であります。そして近郷文化の発祥地であり、(また日高郡内に於ける熊野本街道(古道)の中心であり要衝であり)二千年以上の昔から修行者が参籠し九十九王子に関する後白河院、後鳥羽上皇さまほか熊野路を往来する多くの方々が宝参りをなされてございます。
おたき山(伊奈瀧)は(海岸地帯ながら和歌山県および日高郡、印南町のほぼ中央にあり少々西に流れてはいますが八葉の蓮華を形成し)、弘法大師の由緒に基づいて本高野山の名称もあり、伊奈瀧を中心にお山全体を御佛(神)と仰ぎ礼拝します。
一、日高郡内に於ける熊野本街道とは、有田郡の鹿ヶ瀬峠(ししがせとうげ)を越えて上津木(かみつぎ有田郡)を過って日高郡川辺町蛇尾(へびお)へ入り現在の県道で早藤(はいくず)から日高川を渡り松瀬(まっせ)から下和佐(しもわさ)の、柿ノ木峠を越えて現在の印南町印南原の瀧法寺に参拝し、お山を越えて(後に山麓から白櫛の谷へ廻って)馬の背から、旧切目川村羽六(はろく)へ下り切目川を渡って古屋、楠本、名杭(ふるや、くすもと、なぐい)から西岩代(にしいわしろ)へ越え戸中(となか)を通って高城、清川、秋津(たかぎ、きよかわ、あきづ)という順序であります。元弘元年(1331)に大地震、大津波があり現在の水際から約3−4kmも紀州沿岸が隆起し和歌浦、海南市の日方地区なども其の時に生じたものであり、日高沿岸もまた大きく激変しましたが、それ以前は御坊市の大半が海であり、塩屋地区も猪野々(いのの)印南地区は山口と印南原の境界タタラヤ、切目地区は名杭、高垣(たかがき)岩代は西岩代、南部は晩稲、田辺市は秋津までそれぞれ海でしたゆえ西岩代から急に奥地の高城へ廻ったのであります。ですから現在の海岸地帯の御通行ではありません。因に瀧法寺山麓を小川に沿って西へ約60メートルに「王子田圃」があり後白河院、後鳥羽上皇さまほか高貴の方々が瀧法寺に御参拝なされた際にこの田圃の上米を献上した故に此の名があります。現在、印南町西の地の王子社を昔からの切目王子社と申すは間違いで、印南町島田地区の榎木峠に奉祀されている「中山王子」と申すのが真実の切目王子社であります。其の故は元弘元年の大地震によって名杭(なぐい)に奉祀されていた社殿が崩壊したため中山谷へ遷座した故に、何時の頃からか中山王子と称するように相成ったもので内の畑王子、高家、クハマ、岩内、塩屋、叶王子、西の地の五体王子社など湯川直春一族が有田、日高と二郡の領主になってからの事で室町時代の末期、1560年以後であります。(柿ノ木峠の入口に、くまの道の道標があります。)おたき瀧法寺の北方約4km、川辺町の下和佐の柿ノ木峠の入口に現存する―くまの道の道標―昭和50年6月13日瀧法寺発見。瀧法寺は紀州日高郡内海岸線で、5万分の1、2万5千分の1、観光地図などにあるが如く、文化の発祥地であり、信仰とあわせ歴史的にも観光的にも情緒ゆたかでございます。
一、天智天皇は663年役行者(えんのぎょうじゃ)に勅して即位前の中大兄皇子のおん時と同様に「国内(くぬち)幸あれ民やすかれ」と祈らせたもう大修法が行われました。其のとき金龍満願不動明王ご示現なされ災難厄除、万病、抜苦、願望成就等をお説きなされ「病い抜き不動明王」の別名をもっておかげを頂くお参りが多いです。重岩明神は役行者の御奉祀であります。なお天智天皇おん孫の「市原王さま」もお若い時にお参りなされて無上の幸を頂き
いなたきに、きすめる玉は二つなし
こなた、かなたも君がまにまに・・・・・
と万葉集(四一二)に歌われ「日本一の玉の幸」であることを御証明です。
一、弘法大師(810弘仁元年春)三十七才の御時泉州マキノオ山(現在は西国観音霊場第四番、施福寺)から御来光なされ秘密真言の御修法によって宝の玉は十三佛を中心とする大曼荼羅となって現われ、十三佛一切の萬得を頂いて宝大師と成りたまい古くから参籠している修行者の協力を得て阿字大本願(即身成佛、密厳浄土)による十三佛虚空蔵尊(こくうぞうそん)を主体とする伊奈瀧大宝院萬徳山瀧法寺を御開創なされ産土大神として伊奈瀧大権現(大宝明神)と三宝大荒神そして七福神、歓喜天、四天王、稲荷大明神などを御奉祀なされたのであります。
いで立ちて道は明るし身はかろし
行くては近し玉のいなたき
入定の我は伊奈瀧本高野(ほんこうや)
衆生済度の玉とかがやく・・・・・
と申すお歌が伝わっています。
一、鎌倉時代の中期(1265)近江国三井寺の傑僧、実伊上人、宝参り霊場を信奉し全盛期(1265〜1585)ともいうべき基礎を築き千手観世音菩薩、不空羂索観世音菩薩(みちびき観音)および西国観音霊場の石像奉祀も同上人の霊夢によるものです。
誰ゆえに何くだくらん伊奈瀧に
寄せくる玉の二つなき身を(実伊上人)
ありがたや宝参りの瀧法寺(おたきでら)
十三佛の浄土なりけり (実伊上人)
一、紀伊之国、有田、日高と二郡の領主で威勢のよい湯川直春一族の庇護を受けて其れ相応の隆昌を得るも天正13年(1585)豊臣軍の焼討ちに遭遇・・・。現在の寺域は元々奥之院であり本坊、三重塔、庫裡等は山麓の畠、山門は県道と橋の中間にありました。現在でも瀧之口一帯は門前と申します。因に瀧法寺を守る衛星の城として赤松城、寺山城、牙城、高城、印南要害榎木城、印南原城、青垣内城、門前城、隠野砦など十ヶ所あります。
一、徳川頼信南龍公は天然の景勝と霊験あらたかな宝参り霊場を讃え且つ湯川直春一族の事蹟にも鑑みて南陽山南龍院の院山号および五百石の扶持、灯明料等を賜っています。然し旧印南原村(千石)は元々寺領であり密接な関係にあります。
●みちびき観音・病い抜き不動明王
十三佛さまをよく信心しますと、願望成就、健康・安全、智恵・出世、病気平癒、ボケ・ウツ病、もの忘れなど限りなくありがたいみ佛です。
一、寛永18年(1641)愛染瀧姫の良縁物語があります。昭和58年10月吉日「瀧姫愛染明王堂を再建」七福神、喜天(聖天)を併せて再奉祀。弁天社前の夫婦杉は瀧姫を授かった両親の「古部楠右ヱ門トミ夫妻」が記念の植樹であります。瀧姫愛染明王は夫婦の縁のみならず親子、兄弟、学問、技芸、就職、商売、農業、漁業、工業、金銭など一切の良縁を結ばしめ家内安全、円満繁栄、福徳増長、先祖菩提、厄除開運など一切を守護する御誓願でございます。
一、おたきの霊水および御相伝の(アズキ)法を頂くと心身の病い、四苦八苦をはらい良縁を結び合わせて幸運隆昌、先祖菩提等の喜びを頂きます。
一、この外に「大家相善神、親子安楽水子地蔵尊を御奉祀。瀧法寺は信仰と合わせ歴史的にも、観光的にも情緒ゆたかであります。
一、なお昔から貝(かい)をお供えしたり頂いて帰る風習があります。お参りした「かい」がありますように・・・お参りした「かい」がありました申す素朴な信心であり、また会式、法要などに必ず「杓子餅」をまきます・・・拾った参詣者は「おかげさまで救われます」と押し頂いて喜びます。(御夢想灸もございます)
一、御本尊の虚空蔵大菩薩は智恵福寿のみ佛ですから厄除開運、学問の智恵、出世の栄光、交通安全、病気平癒、所願成就、良縁萬徳等の御祈?と共に御先祖、水子、無縁佛などの御廻向も致します。丑、寅(うし、とら)年の守り本尊です。 合掌
案内図にもあるごとく、おたき瀧法寺では、伊奈瀧大権現、十三佛、みちびき観音、病い抜き不動明王さま、三宝大荒神さまへ必ずお参りすることになっています。
■年中行事
正月 |
一、二、三日 |
初詣で―みんな幸せの宝まいり |
正月 |
七日 |
瀧姫愛染明王 七福神 歓喜天 |
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良縁万徳 円満繁栄
会式 三万日に当る |
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二月 |
三日 |
節分星まつり |
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御祈祷 |
厄除開運、家内安全、交通安全智恵福寿、健康増進、商売繁盛等 |
二月 |
十八日 |
病い抜き不動明王 厄除観音会式 伊奈瀧供養 |
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厄除開運、幸運隆晶、智恵福寿
八万日に当る、病気平癒 |
四月 |
十三日 |
十三佛虚空蔵尊 宝大師法要 |
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智恵と幸せ、先祖菩提、福徳円満
十三万日に当る |
六月 |
二十八日 |
伊奈瀧大権現―三宝大荒神御祭儀 |
八月 |
二十四日 |
親子安楽 子授 水子地蔵尊供養 |
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五万日に当る、施餓鬼会 |
十一月 |
十日 |
般若心経奉納法要 |
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相互信修、報恩謝徳、写経奉納
八万日に当る |
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毎月の縁日: |
一、三、七、十三、十八、二十、二十一、二十四、二十八日―功徳日 |
■交通
JR 稲原駅―1.5km タクシーの便あり。
印南駅―3.5km タクシーの便あり。