第十二番 正南面山 高山寺
(真言宗)
大日如来

■高山寺の由来

田辺大師とも呼ばれる名刹高山寺は、聖徳太子の御草創、弘法大師御中興の、由緒ある古刹として広く知られ、いろいろの故事来歴が伝えられているのであるが、今日では厄よけ大師の本山と言われて日曜日や祭日には子供連れの参詣者も多く南紀の名所になっている。田辺市郊外の高台にあって風光明媚で、山上から見おろすと田辺市街は一望の中にあり、遠く瀬戸崎太平洋を望見することもできる。市内から参詣をかねて散歩するにも極めて適当な距離にある。この古刹に絡まる、いろいろの故事来歴についてお話しましょう。
(白禅)
 今から千三百数十年の昔第三十三代推古天皇の時代に、熊野の国牟婁の郡に、お金持ちで智識の豊かな一人の長者が居た。人々は牟の長者と呼んで非常に尊敬していた。
 長者はある年、都に出て聖徳太子の人格に深く感動し心から傾倒したのである。仏教が渡来して、まだ間もない頃であったが、太子は深く仏教に帰依し各地に寺院を建立されていた。長者もまた太子の感化をうけて熱心な仏教徒となった。
 聖徳太子は、上宮太子(じょうぐうたいし)とも申し上げる。非常に英邁な御方で、推古天皇(女帝)の御即位と同時に御歳二十一才で摂政となられて、薨去されるまで二十八年間、政治をお執りになった。その間当時の先進国随唐(中国)の文化を取り入れることに大いに努力されたので、日本の文化はこの時代に画期的な進歩をとげて、空前の大功績を残されたのである。それで工芸建築の仏さまとしても、今日に至るまで非常に尊崇されている。
 長者は太子の御意をうけて、多年蓄積してきた私財をもって歳月をかけ、荘厳な御堂を南面山に建立した、そして勧修学問寺と名付けた。高山寺と改めたのは遥に後世のことである。
 この御堂が竣成したその夜半のことである。長者の門辺にあたって、夜の静けさを破り突然はげしい馬のいななく声がしたので、長者は何事であろうと急いで門を開くと、夜目にも明らかに見られた。太子の愛馬「鳥の駒」(くろのこま)が薬師如来と上宮太子の御像を運んで来て、長者に賜わったのである。侍臣従者達も旅路の疲れを見せず皆元気で、鳥の駒は長者を見ると嬉しげに一きわ高くいなないて勇みたつのであった。長者は自分のような者を、これ程までに御心をおかけ下さってと、非常に感激し感涙にむせぶのであったが、ふと目がさめるとこれは一つの夢であった。そして再び夢路に入り暁近く起き出ようとすれば、昨夜夢にみた薬師如来と上宮太子の二つの尊像が朝日にはえている。驚いて直ちに南面山の御堂にお祀りして、厚く供養し礼拝したのであった。里人達はこの奇蹟を話し合い近在にも伝わって遠近の善男善女の参詣がだんだん多くなってきた。そして当地方に於ける文化の中心ともなって栄えたのである。  
 月日はめぐる小車のように二百余年を経て、弘仁7年初夏の頃救世の大聖、弘法大師は熊野遍歴の途中田辺に来られた。その頃大師は山獄地帯を開拓して高野山に大霊場を建設中であったが、その多忙な時日をさいて当地に見えられたのである。そして南面山の麓で図らずも異様な服装をした体格の大きな一人の老翁に会われて挨拶を交わされたが、この老翁が南面山勧修学問寺鎮護の稲荷明神であった。明神が申されるに、「昔釈尊が霊鷲山にて御説教なされた会座で、はじめてお目にかかったその勝縁に依り、今生他生とその相は変っても、仏法弘通、衆生済度の誓の変らないことは、まことに尊い極みである。未来いつまでもお互いに相依り相助けて、諸人救済の請願を果しましょう。」と誓われた。仏教をひろめて大衆の救済に協力することを誓約されたと言う、この有名な故事は高野山の古い記録にも残ってあり、宗教界では重視されている事である。明神は後日京に上り守護神となって誓約を果されたという説もある。明神について先年京都の有名な神社から調査に来られたこともある。  
   大日如来の影現を現実に見た大衆の驚き
 大師は稲荷明神に会われたことを大変喜ばれて、それから南面山に上り衆生結縁のため密法を修せられた。この時大師の御姿から赫々たる光明が放たれ燦然として輝き、真に大日如来の影現を目のあたりに拝むようであった。その時に参詣していた多くの善男善女は、非常に驚いて恐ろしいことのように思われた。群衆は水を打ったような静かさになりあまりの厳粛さに慄えている人もあった。高山寺絵巻にはこの有様がありありと描かれている。この事実が大層な評判となって大勢の善男善女が連日押し寄せて、参詣者が急に多くなってきたのである。
 そして大師は暫く南面山にお足を駐められて、或は修法し或は遠近に托鉢して親しく教化を続けられた。救われる人も多くなって、永い難病がなおったとか、いざっていた人が立ったとか、いろいろの風評も伝えられた。
   じんばら井戸物語
 或る日大師は里から里へ托鉢されて、路傍の家に一杯の水をお求めになった。病床の母を看護していた少女が出て来て、
「暫くお待ち遊ばせ」
と急いで走り去ったが、凡そ半刻も経ったころ、やっと水を器に入れて捧げて来た。大師は不思議に思い、お尋ねになると、
「ここは海辺ゆえ水がからく、その上に濁って飲むことができません。ここから半里ばかり上った谷に、少しずつ湧き出る清水をくみ飲み料としています」
大師は深く同情されて、
 「良い水がなくては、さぞ不自由なことであろう」
  と仰せられ、程近い南面山の麓の地を相して、杖を指し立て呪文をとなえて、しばらく瞑目し給えば、あら不思議や、杖の下から清水がにじみ出してきた。
「ここを掘るがよい」
  そして微笑を浮べられ、光明真言を唱えて静に去ってゆかれた。少女が里人達の協力を得て、ここに井戸を掘ると、こんこんと清水が湧き出した。これは里一帯の大きな歓びであった。そして夜な夜なこの井戸から光明が放たれ、病者がこの水を飲めば直ぐに治り、眼を患う者はこの水で洗えば速やかに癒え、効験真にあらたかであった。世人は、じんばら(光明の義)井戸と称えて崇めたのである。
    大師御自像を彫刻会津川の深渕に御姿写し
 こうして大師の御徳に随喜する者日に増し月に加って来たが、大師には諸国を遍歴して、衆生を済度すると言う誓願があり、一ヶ所に長くを止めることはできない。それで再び巡歴の旅に出ようとなされたが、これを聞き伝えた老若男女が大群衆となって集り、或は御袖にすがり或は杖を握り、親に別れる幼児の如く嘆き悲しんだ。
  大師は人々の真情にほだされ御自身の御像を刻みこれを残されることになり会津川の深淵に御姿を写し御自像を彫刻されて、長く記念に残されたのである。
「私は永久にこの地にとどまる」
と。尽きぬ名残を惜しまれながら、熊野の奥深く遍歴の旅につかれた。この深淵を鑑ヶ淵(かがみのふち)と称えている。そして大師は永久に此地におわしましますのである。
 大師の数々の御縁に結ばれた霊域南面山は、上宮太子、弘法大師の御宝前に参詣する者続々と、日夜絶えることのない有様であった。

   空増上人名刹を再建
 世は平安鎌倉と過ぎ、やがて戦国時代となった。元亀天正の頃は槍一筋の功名で、一国一城の主になることもできた。人の心も荒み戦雲乱れ飛ぶ天正13年、豊臣氏の軍勢が紀州路に入り紀南に延びて来た。流言が飛んで田辺も騒然としていた。
「大勢野武士も混ざっているそうな」
 勝つためには手段をえらばない、実に恐ろしいことである。さしもの大寺院もあわれ戦火のために一片の灰燼に帰した。古今東西を問わず、戦火に依る惨害は真に莫大なもの、当山も多くの貴重な文化財を失ったことは、惜みても余りあることである。寺僧は大師と太子の二尊像を奉じて伊作田(稲成)の岩窟に難をさけた。
 その頃高野山に長い歳月を修行に修行を重ねている一人の高僧が居られた。或る夜もうもうと空をこがす大火災に、あたら大寺院が無惨にも焼け落ちるのをはっきりと見た、その時忽然として御姿を見せられた大師が、
「汝ゆきて速やかに再建せよ」
 と、愕然として目をさました。あたりは静かで枕辺に般若心経一巻がおかれてあった。翌朝いそぎ旅装を整えて南下し、この口熊野の南面山に来り、廃虚となった有様を見て、夢に大師が告げられたのは此処であろうと、霊跡再興の誓をたてられた。そして多くの困難を排して、遂に立派な寺院を復興されたのである。この高僧こそ中興開山第一世法印空増上人その人である。そして中興開山以後、当山の主管職は第何世法印と呼称するのが慣例になっている。
 更に後を継ぐ歴代の上人達は至誠を尽して、昔の面影を今に成し遂げ宇宙の真理を説く教を、永遠に伝える大寺院となった。そして徳川時代に興山寺と更め次に高山寺と改めたのである。

   旅僧の悲願 多宝塔物語
 徳川時代も既に央を過ぎた頃、秋風の身にしむ夕闇を縫うて、一人の旅僧が高山寺を訪れた。彼の名は興道阿凉(ありょう)と言い、関東阿房の国東光寺の僧で、俳諧行脚の旅に出て諸国を廻り、この南紀州へも来たのであった。そして高徳を慕われる当山第十世法印義澄上人に教えを乞うた。
 阿凉坊は気候もよく物資に恵まれ人の心も温かい此地の暫く足を停めることにした。
 彼は或る日この霊山に多宝塔があるならば、一層仏徳を賛仰することになるであろうと考えて、老師義澄上人に相談して、これが建立の大願を発起したのである。しかし容易な事業ではない。浄財を募集するために雨の日も嵐の日も、うまずたゆまず托鉢行脚に出たのであった。自分の生涯をかけなければならぬ大事業であると、悲壮な覚悟をきめていたのである。しかし遂に斯の大業は十年ではどうしても出来ないと考えて次の時代を背負う子供達に着目し、子供達に希望をかけることにした。そこで彼は托鉢でうけた施物を、子供達の好む菓子などに代えて、諸所に子供達を集めおとぎ話などして共に遊びたわむれ、折を見て多宝塔建立の念願を話し、将来この事業が工事を進めることになれば、どうぞ助けてくれるようにと切々と頼んだ。遠近の子供達は「塔の和尚さん」と呼んで母親を慕うように、彼の法衣にまといつくようになった。
 塔の和尚さんは多宝塔建立を発願すると共に、着工する時の用材になるよう念じて、南面山山中に多くの杉桧の苗も植えた。
 大業の前途全く見通しがつかないのに、塔の和尚さんは寛政2年の春病のため四十六才で、多宝塔の建立を念じながら、さびしく永遠の眠についた。遠く数百里離れた房総半島から来てはからずも此の地に止まり多宝塔建立のため力の限り努力した。しかし遂に目的を達することができず、悲願を抱いて空しく現世を去ったのである。
 どこの村でも子供達は、塔の和尚さんを今日か明日かと待ちわびたが遂に再び和尚さんの姿を見ることが出来なかった。それも何時しか忘れてすくすくと成人していった。
 やがて義什上人が義澄上人の後を継いで当山第十一世法印の職につかれた。
 義什上人は旅僧の悲願多宝塔の建立について具体的な計画を発表され十五ヶ年計画と言う構想のもとに着々として準備をすすめることになった。この地方としては実に大事業であったが、大衆は充分な理解をもって大いに協力した。曽て塔の和尚さんの仲よしだった子供達は、既に青年になり壮年に成長していた。お菓子をくれたり頭をなでて時が来たなら助けてくれと言われた「塔の和尚さん」のあの懐かしい思い出がよみがえって、或は浄財を寄附し或は労力を奉仕したのであった。
 いよいよ落慶入仏供養大法会の日がきて近在近郊は言うに及ばす、遠方からも大勢の善男善女が雲集した。白雲去来する天空に、木の香新しい荘厳な高塔が巍然として聳えている。山内はぎっしりと人の波、おしつもまれつ参詣者で大混雑、境内の広場では見世物が軒をならべ、露店商人の客を呼ぶ声も賑やかであった。大衆は仏徳を仰ぎ讃し阿凉法師の大願成就を歓び合ったのである。その大雑踏から離れた西南隅、興道阿凉の墓前に、紫の法衣を召した義什上人が、静かに合掌瞑目しておられたと伝えられる。
 多宝塔とは二重屋根の高塔で、真言宗寺院の根本的な中心となる建造物、一般には大日如来をお祀りしているのであるが、高山寺では上宮太子をお祀りしていて、その名も上宮閣(じょうぐうかく)と名付けられてある。これは全国的にも特異の存在である。そして毎年4月10日に上宮太子大法会が執行される。

■年中行事
      霊験畏し田辺大師
   ありがたや  御影の淵にうつしおく
     大師はここに   おわしまします  (奥之院御詠歌)
 お大師さんは奥之院にお祀りされている。田辺のお大師さんは特に除厄招福を強調されているので、厄よけ大師として遠くまで広く知られている。そして昔から霊験まことに、あらたかであると伝えられているので、交通安全、商売繁盛、病気全快良縁や安産などを祈願する人もあり願望がかなえられて御礼参りにくる人もある。毎月かかさず遠方から月参りする人もあり、お願をかけて二十一日間、日参する人もある。毎月21日にはお大師さんの日で特に参詣者も多い。
 春のお大師さんと言われて親しまれる春の大祭は4月21日、弘法大師正御影洪(しょうみえく)の大法会(だいほうえ)が執行される。お大師さん御入定(ごにゅうじょう)の日である。
 夏のお大師さんと呼ばれる弘法大師降誕会(ごこうたんえ)大会式(だいえしき)は7月15日に行われる。毎年両日は非常な人出で大賑わいを見せるのは御存知の通りである。
 御縁があって信仰をもつ善男善女が一人でも多くなることを念願する。

■高山寺所蔵名品
 

建造物    
  多宝塔 文化13年竣成
仏像    
  聖徳太子像 鎌倉後期
  仁王像一対 室町後期
  弘法大師像 室町時代
絵画    
  文珠卉図 愚極筆(室町時代)
  寒山拾得図  
  柳に鳥図 盧雪画
  高山寺義澄日記 義澄
  高山寺縁起絵巻 堂本印象筆
出土品    
  早期縄文高山 寺貝塚及出土品
その他    
  生活文化財  

○ 絵画等は県立博物館(和歌山城内)
○ 東京国立博物館に寄託しています。

 


(御本尊) 大日如来
(開創) 聖徳太子の開創、弘法大師中興。法印空増上人による中興開山。
(所在地) 和歌山県田辺市稲成町糸田
(電話)

0739-22-0274