第八番 鷲峰山(しゅうほうざん 興国寺
(臨済宗妙心寺派)
釈迦牟尼佛
守り本尊:帆柱観世音菩薩

■興国寺の由来

 興国寺と法燈国師(ほうとうこくし)
 紀勢本線の紀伊由良駅で下車すると、北西一キロ山手側に臨済宗、妙心寺派寺興国寺がある。
 かつて白隠禅師に「紀に興国寺あり」といわしめ、宗風一世を風靡し、「関南第一禅林」として世に知られた名刹である。
 鷲峰山興国寺は安貞元年(1227)に創建されたが、当時は西方寺と称し、藤原願性(景倫)が開基である。
 天正13年(1585)織田信長の兵火によって往昔の伽藍は焼失してしまった。現在の建物は、慶長6年(1601)時の紀州藩主であった浅野幸長公により再建されたものである。
 開山法燈国師は、名を覚心、号を心地といい、承元元年(1207)信州松本において生誕された。十九才で出家、南都東大寺で具足戒を受けられ、次で高野山にのぼり伝法院の覚仏阿闍梨について密教を学ばれた。その後、同じく高野山のの行勇禅師に禅法を受けられた。そして、三十六才で当時京都深草に住せられていた道元禅師に参じ、四十三才(1249)に宋(現在の中国)に渡り、各地の禅刹を歴参して遂に、無門慧開禅師の法を嗣いで四十八才(1254)の時、帰朝され、高野山金剛三昧院に住持された。
 五十二才(1258)鎌倉三代将軍、源実朝の家臣で由良荘の地頭でもあった藤原願性(景倫)に懇請されて興国寺(当時は西方寺)開山となられたものである。
 国師は、亀山、後宇多、後伏見、後醍醐と歴代天皇の尊信も厚く、師の遷化されるや、亀山法皇は「法燈禅師」号を、また後醍醐天皇は「法燈円明国師」の勅諡と、のち興国寺の寺号を追贈された。
 又宋より帰朝のさい「無門関」(禅宗では大切な書物)をわが国に初めてもたらされた。

■尺八  また国師は自ら尺八を会得され、さらに尺八の名手四居士を伴い帰朝された。国師によって禅と結ばれた尺八がやがて普化宗となり全国にひろまる。それ故に興国寺は虚無僧の本山でもある。

■味噌・醤油  国師は径山寺(きんざんじ)味噌の醸造方法も宋で習得される。これは、後工夫をされて湯浅地方で製造されるようになった。味噌、醤油、いずれも国師によって我が国に伝えられたのである。

 又国師と母親(慧日大姉)との間には、こまやかな心情(親子愛)を偶ぶ佳話がある。
 国師の母親は、子なきを憂え、戸隠の観音に祈願することになった。この戸隠山というのは、険峻な厳山で、松本から数百キロ程も北方で、交通機関もない不便な時代に、女の足でゆくのは、余程の決意があったに相意ない。母公がここで籠っている或る夜のこと、観音様が自ら燈をとって子供を授けて下される夢を見た。こうした母のけいけんな信仰から、後の法燈国師が生まれたのである。
 さて故郷、信州を出でて、母と別れること既に数十年国師は帰省の心つのるばかりである。六十歳の時、遂に意を決して信州に旅立たれた。ところが感応の致すところか、老母もまた国師に会いたさ一念で、紀州に向かっていた。その道中で国師と出会うのである。国師は母への心づかいから衣を脱いで手をとり、或は背負うて、先ず母の願いである熊野参詣をすまし、帰来してから寺の東南一キロ許りの地に庵室を設けて母の居所として、毎朝欠かすことなく、その安否を尋ねられた。丁度弘法大師が讃岐から会いに来た母が女人禁制のため高野山に登れないのを、麓の慈尊院において訪ねられたのに似ている。
 さて母は、この庵室に居ること一年許りで亡くなられたので、庵を、母を開基として修善寺という寺とした。側に供養塔を建て、慧日大姉とおくり名をされたのである。
 以後国師九十二歳で亡くなられるまで三十一年間、毎日素足でこの墓前に詣で、ねんごろに供養すること、母いますが如くであった。これは京都栂尾、高山寺開創の高僧明恵上人の場合と同じである。
 さて慧日大姉塔で慧日大姉あるが、もとは修善寺境内にあった筈であるが、同寺が廃寺になってから、ゆかりもない所に埋もれていたのを、興国寺境内、それも慧日観音(慧日大姉の法号に因んでかく申し上げることになった)をお建てした場所の側に移すことにした。ここに観世音菩薩、法燈国師、慧日大姉の三位が一処になったのである。

■伽藍

 現在興国寺には、由良の象徴となっている山門の他、仏殿、禅堂、方丈、庫院、書院、隠寮、鐘楼、納骨堂、浴室、昭和48年に至って天狗堂、虚鈴庵、不老閣が建立され、「関南第一禅林」の伝統がよくたもたれている。

■寺宝

 寺宝としては、公開はしてないが法燈国師坐像、絹本着色法燈国師画像、誓度院規式等がある。開山堂に安置されている法燈国師坐像(木像)は、国師八十才の寿像と伝えられ、頂相彫刻としては鎌倉時代における最高傑作といわれる。又国師画像は、正和4年(1315)覚慧禅師が、国師の法弟心開長老のために画いた国師の肖像画である。この画像は、宋元様式が日本化にむかう時代の代表的な作品で、着色が極めて温和で華麗なものとなっている。
 又禅堂の横には、鎌倉三代将軍、源実朝公の墓がある。公の遺骨は、宋の育王山と当興国寺に葬られている。そして墓の側には、同じく実朝公の「うちはへて秋は来にけり紀の国や由良の岬の海士のうけ繩」の歌を刻んだ歌碑が建てられている。


■年中行事

 ここは普化尺八の発祥の地であり、虚無僧の本山であるばかりでなく、京都、鞍馬寺と並ぶ天狗の寺としても有名である。毎年成人の日(1月)に催される天狗まつりには、入試合格、交通安全、降魔厄除に大天狗の神通力を授かろうとする多くの信者、参詣者で境内は賑う。
 5月8日には、お釈迦様のご生誕を祝うお祭り、釈尊降誕会(普通には花祭りと言われる)には、お稚児さんが白象に乗って町内を練り歩く盛大な行事になっている。ちょうど花の季節でもあり、興国寺でも寺内を開放して露店などが並び賑やかなものである。
 8月15日には、興国寺土俑焼き(火祭り)が行われる。興国寺の火祭りは、毎年孟蘭盆会式として8月15日に行われているが、この行事は鎌倉時代より伝えられる独特の燈籠焼である。(59年より旧盆から新盆に変更)
 火祭りとしては、日本三大祭の一つで越前(福井)の永平寺、筑前(福岡)の聖福寺と興国寺がこの伝統の行事を行っている。土俑焼き(火祭り)の由来は古く、興国寺のある鷲峰山に山伏崩れの夜盗一群が住み着き付近住民達に恐れられていたが、国師により夜盗退治の調伏祈祷が行われた際に土俑(土で作った人形)を焼いたことが始まりで燈籠精霊の送り火も、ともに行なうようになったのである。現在では、県無形文化財に指定されている。
 10月13日には、法燈国師の命日の日にあたり、毎年開山忌の法要がおごそかにおこなわれる。

■交通
 高速案内 広川由良から15分
 広川由良インター、大型バス駐車可
 由良駅より徒歩10分
 興国寺から往生寺国道入口まで9.5km
 興国寺から浄教寺藤並国道入口まで15.8km

 


(御本尊) 釈迦牟尼仏
(開創) 法燈国師による開山。
(所在地) 和歌山県日高郡由良町
(電話) 0738-65-0154