■沿革
当院は、千百六十有余年前、弘法大師が高野山開創の時に、高野山参詣の要所に当るこの地に、表玄関として、伽藍を草創し、高野山一山の庶務を司る政所を置き高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場所とされた。
大師の御母公が香川県善通寺より、我が子の開いている山を一目見たいとの一念から、ご高齢にもかかわらず当院へ参られ、ご本尊弥勒菩薩を篤く尊崇せられた。承和二年二月五日に、御母公入寂なされた時に大師は、母公が弥勒菩薩におなりになった霊夢により、廟堂を建立して、御自作の弥勒仏と御母公の御霊を安置された。慈尊とは、弥勤菩薩の別名で、これより慈尊院と公称している。
■御本尊弥勒菩薩(国宝、秘仏)
坐像、貞観(平安時代)の代表的彫像で、昭和三十八年に国宝に指定。安置所の弥勒堂は古来二十一年に一度桧皮屋根葺替の際、ご本尊をお遷しのため開扉している。
◎弥勒堂=御母公廟重文指定、三間、四面宝形造桧皮葺、内部は鎌倉時代、外部は室町時代の修理と伝える。
■高野町石(国指定史跡)
これは、弘法大師が、高野山へお参りになる人の為に山上の根本大塔から当院まで、一町(108m)ごとに木製の卒都婆をたてられ、真言宗のお教をあらわす仏さまの姿を塔婆を持って象徴され、高野山の本街道の道標とされた。後鎌倉時代に現在のような御影石の五輪型卒都婆に建て替えられた。
高さ約3m、幅33cmの大きなもので、当院に第一番目の百八十町の町石がある。
昔、天皇、上皇がたが、高野詣りをされる時、一本一本に礼拝して、登山されたと言う罪障消滅の道でもある。現在、祈りの道として世界遺産に暫定登録されている。登りの方は慈尊院本堂が出発点であり、下りの方は当院本堂が最終地点である。またこの道は、ハイキングコースとして、南海高野線九度山駅―慈尊院―町石道―丹生都姫神社―上古沢駅、約四時間のコースとして、若人、老人、小学生にも親しまれている。
■女人高野
御母公が高野山上へ大師を尋ねようとされたが、大師は、自ら七里四方を女人禁制としておられたので、山麓の当院へ迎えられた。
大師は、月に九度は必ず高野山上より二〇数キロの山道を下って、母公を尋ねられたので地名を九度山と称す。ご母公がご本尊弥勒菩薩を尊崇せられた功徳により、入寂の砌、ご本尊様に化身さられたと言う信仰となり女人の高野参りは、当院までということも相俟って、子宝安産、育児、授乳等を願い、乳房型絵馬を奉納して、祈願した。また髪の毛をお供して、病気平癒を祈った。その霊験日々にあらたかであった。尚ご母公は、壱千百五十ほど前の八十三才であるから、現在の年に換算すると非常に長生きであった。近郷近在の老人達はご母公ほど長生きしたいと五日にお参りし、また長生きしても若い人に迷惑のかからぬようポックリ極楽往生できるようにポックリサンへ、また弁財天(智恵・学力)・稲生明神(財宝)・カルテンさん(子育ての神)やビンズリさん(痛む箇所を手でさする)や四国堂(弘法大師御本尊で四国八十八ヵ所ご本尊を脇におまつりする)があり、女の人が、当院へお参りすれば、すべての願いが叶うようにおまつりしてある。
■結縁寺
高野山詣りは、高野山の玄関である慈尊院弥勒菩薩とご縁を結び罪障を流してから山上へ登って頂くのが高野山への本参りである。大師が弥勒菩薩を非常に信仰された。大師の言葉に「我に十度礼せんよりは、我が母に九度礼をとげよ」と。
■年中行事
一月一日〜三日 |
初詣(初祈祷) |
一月五日 |
初弥勒 |
二月 |
節分祈願 |
三月廿一日 |
正御影供 |
旧三月二十一日 |
旧正御影供 |
八月九日 |
施餓鬼会 |
十二月三一日 |
除夜 |
毎月廿一日 |
大師縁日 |
毎月五日 |
弥勒縁日 |