第33番圓蔵院で、和歌山西国観音霊場は結願となる。当寺は「紀伊国十三仏霊場」の第二番札所としても有名である。歴史をたどっていくと、昔は山城国深草の里「藤の森」の地にあった。元和年間(1615〜23)に法印宥意という僧が、当時の和歌山城下の西、浄専寺内の屋敷に移したということだが、理由は分からない。そして、萬治二年(1659)に法印宥清が現在地に寺を移建した。移後340年余りの歴史を有する寺である。
昭和20年の空襲では、本尊の大日如来、不動明王、大師堂、弘法大師尊像の諸仏が本堂とも焼けてしまった。被災後は、当時の住職である先々代の信教師が焼け残った塔婆類でバラックを建て、復興の第一歩をふみだした。そして当時副住職の先代英心師は、広島で高射砲隊に入隊していたが、敗戦により和歌山に帰ってきた。英心師は大工の技術の持ち主だった。信教師が大阪の工場を譲り受け解体して寺に運び込んだものを、英心師がこれを組み上げて、かつての本堂跡に持仏式の庫裡を昭和二十三年に完成させたのである。屋根裏は現在ではめずらしい合掌造りになっている。現在の本堂は昭和43年に完成した鉄筋コンクリートづくりで、力強さを感じさせる。また、本尊釈迦如来等の諸仏は信教師が大阪市餌差町の寺より勧請したものである。本堂の向かいには、六地蔵菩薩があり、手を合わせる人の姿がたえない。