有田屋町は寛文7年(1667)、藩主の座を光貞に譲った初代藩主頼宣の隠居所となった町である。隠居所は城西別館または城西隠殿と称された。そして4年後の寛文11年1月頼宣はこの地で息を引きとる。その跡地が光明院に与えられた。
創建は元亀3年(1572)雑賀町の地である。高野山から下ってきた快慶法印が開基。慶長元年(1596)に紀伊国主浅野家の祈祷所となり、元和5年(1619)頼宣の紀州入封とともに紀州徳川家祈祷所になった。この頃(年代不詳)に元寺町へ移転しており、頼宣死後、彼の隠居地が光明院へ与えられることとなる。
移建以後、光明院は本堂、大師堂、阿弥陀堂、鎮守社等の諸堂が建ち並び、頼宣の御殿庭先にあった高さ7丈(23m余)、株周り4間(7m余)に及ぶ連理松(れんりのまつ)があったことが名所図会挿絵に描かれている。
当時安置されていた本尊・聖観世音は弘法大師の作とされ、霊験があったという。また、稲荷神、弁財天、歓喜天などの祠堂がある神仏合祀の寺であった。これらは昭和の罹災で焼滅、その後の区画整理などその面影を偲ぶべくもない。昭和27年頃から先々代吉澤妙泉師の手により、順次復興されてきた。
現在、本堂に聖観世音菩薩、弘法大師、不動明王、行者神変大菩薩(役小角)を安置する他、境内に三宝荒神、金比羅大九頭龍菩薩などの各小祠社が造られ、往時の神仏合祀の形を保っている。