観音寺山門の前に立つと堂々とした仁王門を見上げることになる。当寺はもともと十六世紀末、「大手広芝」と呼ばれていた地に創建された。大手広芝とは、和歌山城の大手から北東約2キロを指すらしい。寛永18年(1641)寺は嘉家作町に移転された。嘉家作で昭和20年の空襲にあったが、塀一枚が防火壁となり被災を免れたが、戦後の区画整理により、元「始成国民学校」(現在の本町小学校の前身)のあった現在地に移転された。
開創以来、永く厄除祈願寺として「上ノ観音」と親しまれてきた。明治期に「下ノ観音」(紫雲山弘誓寺)と合併し現在に至る。
安置されている仏像は多数あり、馬頭・聖観世音は平安後期の作、十一面は南北朝期の作、妙見菩薩は南龍公(紀州徳川家初代藩主頼宣公)の下賜だという。また仁王門の仁王さんは、「寛文八年(1668)五月十八日造立」と吽(うん)形像の頭内部に書かれている。再度の移転、明治以降の一時期には無住寺、戦争と激しい時代の移り変わりにも、諸仏は今日まで守り続けられてきた。そして聖観世音菩薩は和歌山市の文化財に指定されている。
平成6年に本堂修復や庫裏・仁王門改築が完了。境内には地蔵尊が祀られており、その前には息災・安産祈願の石が小布団に鎮座した格好で供えられている。庶民の気持ちが伝わってくる。
また当寺は井原西鶴の「?(からかさ)の御託宣」という題材にも使われている。