この寺は「二寺合一」の寺である。寺号は「慈光寺」と「圓福院」との複合名なのである。
圓福院は元和元年(1615〜23)に近江国(滋賀県)志賀谷の圓福院住職長善阿闍梨(あじゃり)が紀州藩国家老水野氏の誘いを受け、新通り7の地に一宇を建立。後、岡領町(現円福院町)に移り、さらに享保13年(1728)現在地に至る。その当時の寺号は七曜山妙見寺圓福院。水野氏の篤信があったという。境内には聖徳太子自作と伝える太子像を安置する本堂や薬師堂等、四堂が建っていた。しかし、昭和20年の戦災で全焼。さらに戦後の区画整理で寺域の3分の1を失った。
慈光寺は養老7年(723)役小角(修験道開祖)が下和佐の地に開基し、和佐山観音寺として繁栄したが元弘・建武の兵火で一時廃退。寛文年間(1661〜72)高野山の快円阿闍梨が寺を再興し、清涼山慈光寺に改名する。現慈光圓福院の本尊は、この慈光寺の本尊であった。明治維新の廃仏毀釈により慈光寺は荒廃。さらに戦後の寺領喪失により維持困難となった。
昭和27年、戦災焼失の圓福院と、維持困難の慈光寺とが合併。慈光寺から本尊や本堂を現在地に移し、慈光圓福院となり今に至る。
御本尊の観音立像は10世紀頃の作と考えられる、檜材一本彫りである。和歌山県内では数少ない貞観風彫刻のひとつとして、平成2年、国の重要文化財に指定されている