江戸時代の当初、徳川頼宣が和歌山城に入城した際、城内櫓に安置されていた不動明王像を、当時の柳の馬場(現在の柳丁)に堂宇建立の上、安置。高野山の僧春盛坊に徳川家代々の厄除け・家内安全の祈祷を執り行わせたのが当寺の始まりである。
往時、常住院は護摩御堂(ごまんどう)とも呼ばれ、厄除開運・家内安全の護摩祈祷所として、多くの祈願参詣者でにぎわっていた。御本尊不動明王は秘仏として当時から公開されなかった。
第二次世界大戦のため兵隊として召集され、終戦を満州(現中国吉林省)で迎えた現住職がようやく帰国した時には、秘仏は昭和20年の空襲のため堂宇と共に焼失したあとであった。その結果、現住職も遂に御本尊のお姿を一度も拝さずじまいである。
寺は戦後の都市整備計画の波を受け、寺域が半減。さらに境内と墓地が道路で分断されてしまう。昭和23年、檀家衆の浄財によりまず仮堂の建設に着手。以後、墓地整備や庫裏の建設など、順次寺域の整備を行い、昭和51年春に本堂が落成。これをもって金剛山遍照寺常住院の中興とし、今に至っている。
現在の本堂には不動明王、脇本尊に十一面観世音、弘法大師像が安置されているが、現在、護摩祈祷は行われていない。周辺に住宅があり、防災のためのようである。しかし、厄除けや家内安全を願う不動尊信仰の人々の参詣は絶えることはない。