万性寺山門脇には「幡随意上人終焉之地」と刻まれた標石がたっている。この寺はこの幡随意上人ゆかりの寺である。
相模國藤澤の郷(現神奈川県藤沢市)にて上人は生まれる。それまで両親は子宝に恵まれず、熊野権現に一心に祈っていたところ、ある夜、母の夢に、熊野に参っての帰途の野原で金色の大熊に追いかけられ、その熊が宝珠となって母の懐に入るのを見る。その恐ろしさに目が覚めその後、身ごもり生まれたのが、後の幡随意上人であるという。天文11年(1543)の事である。5,6歳の頃から、出家の姿を見ては歓喜してその後を追いかけたという。
21歳の時、それまでの両親の反対を押しきって出家。以来、修行を重ね全国を行脚。各地に足跡、奇蹟を残しつつ熊野に詣でて和歌山に至り、萬松寺(現万性寺)を建立。しかし、遂に病に倒れ、この地で入滅(死去)することになる。
本堂には「幡随意大和尚」の位牌を奉置し、本堂向かい側に墓碑がある。以前は参詣者が上人の墓に箸を供え、その箸を持ち帰ると歯痛が治るとかで、よく箸が供えられていたようである。
またこの寺は、戦争で命を亡くした和歌山県人が遺骨となっての帰郷第一夜を過ごした場所でもある。本堂脇に建つ「満州・支那両事変忠魂安置之霊跡」と刻まれた石碑がそのことを物語っている。当時の紀州部隊(後に24部隊)の戦死者の遺骨を一旦必ず当寺境内に安置し、一夜を過ごしてから故郷に帰られたといわれる。