紀の川沿いに24号線を登ると、ボケ参りの人でなくとも「恍惚の人」を書いた有吉佐和子を思い出すであろう。彼女の「紀の川」も「華岡青洲の妻」も、みなこの辺を舞台とした物語である。
南の空を遮る高野の霊峯を仰ぎ、川を隔てて九度山と向かい合うこの伏原の地は、ボケよけ参りのを思い立たせるには、もってこいの霊場ではなかろうか。
推古朝の頃、この地に紫雲棚引き、その雲間から放たれるまばゆい霊光の村人たちが拝跪している姿を夢でみられた聖徳太子が、自らこの地を訪ねられところ、森の中に光さして、そこの石の上に観音様が応現されたという。供の者みなその有難さに打たれ伏し拝んだというところから伏原と名付けられた由、そして、観音様の現れ給うた石を影向石といい、今も本堂の前にある二尺ばかりの自然石がそれである。
そして、太子自ら堂宇を開創され、一寸八分の本尊を安置され、法華経の一部を金字で写経されて堂下に埋め国家鎮護の霊城として法華山普門院の名を付けられ境内一町歩を付与されたと伝えられる。
天平年間行基菩薩もまたこの霊域を慕われ、自ら一尺二寸の観音像を刻んで八間四面の堂に安置され、為に仏徳大いに広まったのであるが、足利尊氏ら、二度の兵火の為、堂宇ことごとく焼滅したらしい。幸いご本尊だけ影向石の下に難を免れて今もなお開運厄除け、病気平癒、学問上達の霊験を顕わされ、厄除け伏原観音として尊信されている。毎年3月18日本尊会式で四十二才の男子と有志が経営し、ご利益はあらたかである。
横に大師堂があって、高野山大仏師、長谷川康安の一刀三拝の大師坐像が祀られており、このお姿は大師四十二才のお姿であるとか。開運大師として多くの人々の帰依を集めている。
他にお導き大師と四国八十八ヶ所のお砂踏み場がある。
■最寄りの交通機関
和歌山線高野口駅よりタクシー5分、伏原バス停下車徒歩3分、
南海高野線学文路駅下車徒歩20分