「禅林寺ではなくって、幡川の薬師さんと聞くのですよ」と教えられ、阪和高速道の海南東インターをおりた。聞くまでもなく、目の前に小山に「ぼけよけの寺、幡川薬師院」と書かれた看板があってすぐ分った。
禅林寺の開創は、奈良時代の中国僧為光上人で、禅林寺を創建后、紀三井寺(西国二番札所)を建立したという。この寺の最盛期は南北朝の頃であったらしい。
紀伊の守護、天野城主、浅間覚心の帰依を受け、その寺域は三方を山で囲まれた薬師谷と呼ばれる谷全域に広がり、七堂伽藍を整えてその荘厳さを誇っていた。
また、僧坊十二院を整え、宝蔵院、中之坊、知足院、梅之坊・・・・・などの名が今も田畑の呼び名として残っている。
ところが、豊臣秀吉の紀州攻めの兵火に遭い、全山焼き払われた上、寺領もことごとく没収された。
慶長2年、中興の秀慶僧正がこの寺を再興すべくこの地に足をとどめたところ、山中に夜な夜な光を発するものがあるので分け入ってみると、焼け残った薬師如来のお首があっという。これを持ち帰って、京の仏師高慶に土で仏体を作らしめ薬師堂にお祀りされたのが現在のご本尊である。以来、病気平癒、特に眼病に霊験ありとして、江戸期を通じて諸人の信仰を集めたらしい。
けれども、明治の廃仏毀釋の風潮の中で一時は無住寺となったが、地元の田中兵衛氏が檀家を集めて再興の足がかりを作ったという。その頌徳碑が鐘楼の横に建てられている。
この薬師谷一帯には落雷がないという伝説を、住職の光正師がしてくれた。紙面がないのでお参りした時に聞いてほしい。この光正師は、ぼけよけ霊場設置の創唱者でもある。
■最寄りの交通機関
JR海南駅下車タクシー8分、又はオレンジバス薬師谷前にて下車徒歩10分